1996年に発病してからの4年間
第1章 病気の発覚(1996年夏)
第2章 検査の日々(1997年3月)
第3章 施設に通う(1997年4月)
第4章 私の病気入院(1997年8月)
第5章 徘徊の時期
第6章 少しずつ悪くなる
 
●第1章 ・病気の発覚(1996年夏)

母の様子が変だと思い始めたのは1996年のゴールデンウイークが明け、しばらくした頃でした。
洗濯石鹸の大箱を毎日買って来たり、父の下着を毎日5枚ずつ買って来たり、それまでの母からは考えられない妙な行動をし始めたからです。雑巾を一日に何十枚も縫ったりもしていました。そんな様子を見て、私は「ノイローゼだろうか?」と思いました。当時母はまだ50代後半でした。
そんな日が続き、段々激しい物忘れをしたり、次にすることがわからなかったりするようになりました。母自身、そんな自分に対してイライラしているようでした。私は「もしかすると神経の病気かもしれないから、神経内科に連れて行って」と父に頼みました。けれど父は「神経内科」という診療科に対するイメージが良くなかったようで「そんなところに連れてはいけない」と言ってなかなか連れて行ってくれません。けれど母はおかしくなる一方で、それまで一緒に出掛けていた友人達も「この頃どうもおかしい」と言って段々疎遠になって行きます。
6月の始め、私は電話帳で家から一番近い神経内科(町医者)を探し予約を入れました。 そして検査をしたところ「アルツハイマーの疑いがあるので、近くの総合病院で脳の精密検査を受けるように」と言われました。その頃「アルツハイマーとは老人のかかる病気」と思っていたので「まさか50代の母が」と信じられませんでした。けれどすでにその頃、一人で電車に乗って出掛けて帰れなくなったり、あるいは診察の日でもないのに神経内科に一人で行く、ということが何度かありました。後に悩まされる徘徊が始まっていたのです。
家から一番近い総合病院の神経内科での検査は予約待ちで、全ての検査が終わったのは秋でした。結果は「若年性アルツハイマーの疑いがあるが、はっきりとはわからない。ピック病の疑いもある」とのこと。ともかく精神科に通院してイライラを押さえる薬などを服用し、様子を見ながら治療方法を考える、ということになりました。その頃の薬は9種類くらい服用していましたが、対症療法のみで、根本治療はなく、今後の見通しも全くつきません。 私もまだ会社に通っていたので四六時中つきそっていることもできません。その病院内にある「社会相談窓口」で事情を話しましたが、年齢的に受け入れてもらえるところはなく、社会的に助けてもらえることも全くない、と事務的に説明されてがっかりしたものでした。市の福祉課窓口にも相談に行ったし、福祉協議会にも行きましたが返答は同じでした。
母は、自分が何をすれば良いのかがわからず、一日に何度も何度も父の職場に電話をかけていました。たとえば「魚と野菜を買ってきて料理をする」と紙に書いて出かけても、それを確認する電話を5分おきにかけるのです。お風呂を沸かす、などの簡単なことでもわからなくなっていました。また、一緒に買い物に行くと、商品を手にとって棚に投げ返したり、と、この頃はイライラが強く、いわゆる医師の言う「反社会的な行動」が目立ちました。
それからしばらく経った10月のある日、父が血を吐いて倒れました。多分、心因性の胃潰瘍だったのだと思います。長年勤めた勤務先を定年退職し、ゆとりのある、第二の職場で嘱託勤務をしながら「これから旅行にも行って・・・」と楽しみにしていた矢先の母の病気が堪えたのでしょうか。
私も会社には行けなくなりました。母と一緒に父の病室に通う毎日です。たくさんの薬を服用しても母のイライラはおさまる様子もありません。段々強い薬を服用するようになり、副作用も出てきました。「布団を敷いて寝る」ということがわからなかったり、トイレの場所を間違えたり、一人で日常生活を送ることが困難になって来たのです。
母はどんどん悪くなって行くように思えるのに、果たしてこのまま担当医師の言う通り様子を見るだけで良いのだろうか?なにか他に方法はないのだろうか?そんなギモンを抱きながら暮らしていました。
 
●第2章 ・検査の日々(1997年夏)