1996年に発病してからの4年間
第1章 病気の発覚(1996年夏)
第2章 検査の日々(1997年3月)
第3章 施設に通う(1997年4月)
第4章 私の病気入院(1997年8月)
第5章 徘徊の時期
第6章 少しずつ悪くなる
 
●第3章 ・施設に通う(1997年4月)
「大学病院は不親切」と言われた当の大学病院は、教授・担当医・助手の医師・病棟の婦長さん、皆さんとても親切でした。そして「老人病院には預けたくない」と希望した私たちの意志を汲んでくださった婦長さんが昼間だけ預けられそうな施設をあちこち探してくださり、隣県のデイサービスに通えることになりました。近所の施設では週一度が限度、二つの施設を掛け持ちしても週に二回しか預けることができないけれど、婦長さんが探してくださった施設は新設だったことが幸いしてオープンと同時に受け入れて貰えることになり、また事務長さんに泣きついて週に5日預かっていただけることになりました。ただし遠方から片道一時間ほどかけて通うことになるので送迎はこちらでしますとお約束しました。
11年経った現在でもそこにお世話になっています。今思い返しても本当にラッキーでした。そして、あのときの婦長さんの御恩は一生忘れません。
施設がオープンするまでの1ケ月間は、家の近くの老健施設のデイサービスに「1ケ月間だけ」という約束で週5日通うことになりました。通常は週に1度しか受け入れてもらえないところです。
朝は父の車で母と一緒に行き、昼間は私がずっとついていて、夕方は施設の送迎車で家まで送ってもらいました。 母が慣れて来れば私は付き添わなくても良いだろうと思っていましたが、なぜか母はそこに馴染むことが出来ず、私が家に帰ろうとすると後を追って脱走したりしました。結局、最後の日まで1ケ月間ずっと毎日付き添いました。職員の方は大変良くしてくださったのに申し訳なかったと思います。
幸いにも新しい施設では、若い介護福祉士さんたちと機嫌よく過ごしてくれました。それまでと同じように、朝は父の車で一緒に行き、夕方は最寄の駅まで施設の送迎車で送って貰い、そこから電車に乗って帰りました。段々母から離れている時間を多くして婦長さんの控え室で本を読んで母を待っていました。当時はまだ車の免許を取っていなかったので、電車に乗って帰るのは大変でした。
そうしているうち、今度は私の調子が悪くなりました。現代女性の3人に1人は持っているという「子宮筋腫」が見つかったのです。春先から下腹に異物感があったのですが、母のこともあり延ばし延ばしにしているうちにかなりの大きさになっていました。婦人科へ行ったときにはすでに医師も驚くほどで、その場で「いつ切りましょうか?」と言われました。入院は早くて2週間の予定ですが、退院してもしばらくは自宅療養です。お腹をばっさり切るのですから当分の間は安静が必要だと思われます。 その間母を預かって貰うところを探さなくてはなりません。
このときに初めて「ステイ」というものを利用しました。

 
●第4章 ・私の病気入院(1997年8月)