2008年2月現在と、これからのこと



■2008年2月現在

「2000年6月現在の様子」直後の7月末、母は誤嚥性肺炎を起こして緊急入院しました。もともとは微熱が下がらず、近所の町医者でレントゲンを取ってもらっても肺に異常が見られなかったので風邪だと思っていたのですが、毎日夕方になると発熱するため、ある友人に相談したところ「レントゲンでは見つかりにくい肺炎なのかもしれない」と言われて、翌日すぐ大学病院の主治医へ連絡をしました。いつも親切にしてくれる婦長さんに「すぐに連れて来なさい」と言われて次の日に大学病院で検査したところ「誤嚥性肺炎」の診断。あいにく大学病院は満室で入院ができないが、系列の病院なら部屋が空いているので即日入院できるとのこと。そのまま大学病院から系列病院へ運ばれて入院となりました。
入院してすぐ、もう口から食事や水分を摂るのは難しいので「胃ろう」を作るよう勧められ、そのまま胃ろうの増設をしました。それ以降、口からは水一滴入れない生活となりました。
幸いにもまだ体力があること、肺炎が重篤でなかったことにより2週間で退院できました。


それから2007年の12月まで、徐々に体力が衰え、反応が鈍くはなっても、大事無く、毎日デイサービスに通い、2ケ月に一度一週間のショートステイ、というスケジュールで暮らして来ました。2007年4月介護保険の改定により、それまで週に6日預けていたショートステイが週に5日に減りましたが、それでも朝9時から午後3時までは預かってもらえたので大変助かりました。
2007年11月には父が二度目のぎっくり腰になり、私も会社を一週間休みましたが、それ以外はこれと言って変化もなく、平和に過ごして来ました。


急変したのは2007年の年末です。
毎年、年末の大掃除などのために12月にショートステイで一週間預かって貰うのですが、12月31日に家に戻った日から発熱が始まりました。あいにくの年末年始でしたが熱が39度にもなったため、新年早々の2008年1月2日に救急外来で見てもらい、念のため肺のレントゲンを撮ってもらいましたが肺炎ではないとの診断。けれど翌日からも熱が下がりません。1月4日に再度家のすぐ近くの病院で受診し点滴も打ちましたが、やはり熱は下がりません。それどころか5日6日には咳き込む拍子に口から水のようなものを噴き出してしまいます。そこで、1月7日に再度総合病院の呼吸器科に行ったところ既に肺が真っ白になっており、万一のことも覚悟してくださいと言われる急変でした。


最初の間は私も週に1、2度会社に行っていましたが、容態が安定しないため「介護休職」に踏み切り、毎日、父と交替で病室に詰めて痰の吸引をしました。熱も上がったり下がったりです。血管がもろくなっているため点滴をするにもなかなか針が入りません。
その後、肺炎は何とか落ち着きましたが、1月28日に胃ろうのチューブ交換(半年に一度、チューブを交換しています)前に嘔吐が始まりました。黄色や青緑色の胃液や胆汁の嘔吐で、最初は本当にびっくりしました。1月7日に入院してから25日まで絶食していたため胃が物を受付けなくなってしまっているようで、もう胃に栄養を入れるのは難しいと判断され、急遽「腸ろう」へ変更することとなりました。と同時に、今後も誤嚥性肺炎を起こす可能性があるため気管切開・喉頭摘出をするかどうか主治医と相談するようにと言われました。入院先の総合病院ではその手術が出来ないためです。父と二人で主治医の居る京都府立医大へ行き、耳鼻科の専門医を紹介して貰いましたが「喉頭摘出」は珍しい手術ではないけれど全身麻酔のため状態を見ないと可能かどうかわからない、とのこと。主治医と相談の上、ともかく大学病院へ転院することになりました。


そうして1月24日、京都府立医大へ転院しました。
大学時代から京都府立医大でバイトをしていたこともあり、通い慣れた場所です。医師や看護師の人数も多く信頼できる先生も居て、この転院はむしろ私にとっては安心でした。転院当初
、せっかく個室に入れたのに夜中や朝方に嘔吐があるため看護婦詰め所の奥の「観察室」に入れられましたが数日後に個室に移れました。さまざまな検査が毎日繰り返され、改めて母の脳を調べたところどうも「アルツハイマー型痴呆」ではないらしいとのこと。通常「アルツハイマー」の場合前頭葉および側頭葉に脳の萎縮が認められますが、母の脳は全体に萎縮してしまっているそうです。今後の研究のために、と少ない血を大量に採られて別の大学へ研究材料として送られたりもしました。脊髄から髄液も抜かれました。いまさら病名がわかったところで、どうなるものでもありませんが、研究の結果、母と同じような病気に罹った方のためになれば、と思います。耳鼻科、口腔外科の検査も色々して、最終的に父と私は「喉頭摘出はしない」ということにしました。




■これからのこと

2008年2月21日、京都府立医大から家のすぐ近くの病院へ再度転院しました。まだ数日に一度は嘔吐があり(転院の前日にも大量に胃液と胆汁を嘔吐しました)熱も37度後半から下がりませんが、喉頭摘出術をしない、と決めたからにはいつまでも大学病院には居られません。それに、車で片道40〜50分かかる大学病院へ往復する父が心配でした(私はJRとバス利用)。それに比べると家の近くの病院は徒歩でも5分ほどの場所で通うのは楽です。ただし大学病院のようにスタッフが揃っていないし、専門医が居るわけでもありません。それでも受け入れの返事を貰ったときはホッとしました。万一ここに断わられた場合は、主治医のコネで別の病院へ入れてもらうことになっていましたが、遠い上に全然知らない病院です。同じ知らない病院なら近いに越したことはありません。


けれど、この病院もいつまでも居られる場所ではありません。「地域連携室」の相談員お方と、家族面接を2回しましたが「3ケ月から長くても6ケ月で出てください」と言われました。


母はもう車椅子に座ることが出来なくなっています。大学病院では毎日リハビリの先生が午前と午後の2回に萎縮した腕や脚を伸ばすリハビリをしてくださいましたが、今度の病院ではそれもありません。また、昨年末までお世話になっていたショートステイ先からは、もう預かれないとお断りされてしまいました。発病して約12年、自宅介護で頑張って来ましたが、そろそろ限界のようです。


次に考えたのは「特別養護護老人ホーム」か「終身医療病院」です。「特養」と呼ばれる施設は最寄では家から車で5分ほどのところと15分ほどのところがあります。近いほうの施設は出来てから4年でとても綺麗で明るく全室個室です。家からは自転車でも10分ほどのところなので第一希望ではありますが、現在入居希望の方が250人ほどおられるそうで、さらに「胃ろう」「腸ろう」は入居者全体の1割程度しか受け入れていないらしく、かなり厳しそうです。もう1ケ所、車で15分ほどのところは、実は母が最初に1ケ月間だけお世話になったデイサービス施設に併設されている「特養」です。建物は古いですが、こちらは個室がなく4人部屋が多く(つまりは受け入れ人数も多い)、また相談員の方が親切で「申し込みの順番通りではなく緊急性で決めます」と言ってくださって、どうやら母はリストの上位に入れて貰えそうな感じでした。


「特養」に入れるのは1年先なのか、2年先なのかわかりません。「終身」の施設なので、その方が退居されるか亡くならないと部屋は空かないからです。けれど現在いる病院には長くて半年しかいられない。そうなると残るのは「終身医療病院」です。大学病院の主治医が最初に「ここなら紹介出切る」と言ってくれて見学に行った場所です。勿論ここも順番待ちですが、ベッド数が桁違いに多い上(第一希望の特養は全部で150床しかないけれど終身医療病院は1200床)、大学病院の主治医のコネで数ヶ月待ちくらいで入れるのではないか、とのこと。「特養」に入れるまではこちらのお世話になるかもしれません。